大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和61年(ワ)4442号 判決

主文

一  被告は、原告に対し、金二二四万四六一〇円及びこれに対する昭和六一年四月一七日から支払い済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決は、仮りに執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は、原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  訴外土屋猛は、不慮の交通事故を装って自動車保険の保険金を詐取しようと企て、昭和五八年二月一二日、東京都保谷市内の道路において、普通乗用自動車を運転中、自車を追い越そうとして進路前方に進入しかかった訴外斉藤広運転の普通乗用自動車に自車を衝突させる事故(以下本件交通事故という。)を発生させ、これにより傷害を受けたとして、同日から同年六月七日まで被告経営の知念医院に入院し、同日退院後同年八月三日まで通院して治療を受けた。

2  原告は、昭和五八年二月一六日ころ、被告との間において、訴外土屋が知念医院において治療を受けた治療費を、原告が被告の指定する銀行の預金口座に振り込む方法で支払う旨の重畳的債務引受契約又は治療費直接払契約(以下本件契約という。)を締結し、その際、原告は、原告の支払う分は、治療費のうち本件交通事故と相当因果関係にあり、かつ、原告と訴外斉藤との間の自動車保険の被保険者である訴外斉藤が損害賠償責任を負う治療費部分に限るものである趣旨を述べ、本件契約を締結するのは、本件交通事故が真実不慮の事故であり、土屋がそれにより真実治療を要する傷害を負ったことを前提とするものである旨(以下本件動機という。)を表示した。

3  原告は、本件契約締結の際、本件事故は、真実は訴外土屋が保険金詐欺の目的で故意に惹起させたものであり、土屋が傷害を負った事実はなかったが、それがあたかも不慮の交通事故であって土屋がこれにより負傷したため知念医院で診療を受けていると誤信していた。

4  原告は、被告から土屋の治療に関する診療報酬請求を受けて、被告に対し次のとおり合計二二四万四六一〇円を支払った。

(一) 昭和五八年四月二六日 一五万八七〇〇円

(二) 同年 五月二六日 六八万四九〇〇円

(三) 同年 六月一〇日 一一一万三七八〇円

(四) 同年 七月七日 二〇万四九〇〇円

(五) 同年 九月二日 八万二三三〇円

5  右のとおり、本件契約は無効であり、被告が原告から支払いを受けた4記載の二二四万四六一〇円は法律上の原因を欠く利得であるから、原告は、不当利得返還請求権に基づき、被告に対し、右同額及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和六一年四月一七日から支払い済みに至る民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求原因1は認める。

2  同2のうち、原告と被告との間において、昭和五八年二月一六日ころ、原告が訴外土屋の知念医院における治療費を被告の指定する銀行の預金口座に振り込む方法で支払う旨合意したことは認めるが、右は、土屋の治療費の立替え払いの支払い方法の合意に過ぎない。また、原告が本件動機を表示したとの趣旨の部分は否認する。

3  同3は否認する。

4  同4は認める。

5  同5は争う。

三  抗弁

1  重過失

原告は、自動車保険の保険者であり、自動車保険業務について専門的知識と経験を有するものであるから、交通事故の被害者と称する者から損害賠償金の支払を求められた場合は、事故発生の有無とその態様、事故当事者双方の過失の大小その他損害賠償責任につき十分慎重に調査して決定するべき注意義務があるのにこれを怠り、昭和五八年二月一四日、訴外斉藤から本件交通事故が発生したことを電話で通知されただけで直ちに土屋の治療費を立替え払いする旨決定し、被告に通知したものであり、重大な過失がある。

2  禁反言

原告は、訴外斉藤の土屋に対する損害賠償責任の存在を認め、右の三者間で原告が土屋の治療費を立替え払いする旨合意し、被告に対しその旨意思表示をしたため、被告はこれを承諾した。被告としては、本来土屋又は土屋の加入している健康保険組合に対し診療報酬の支払請求をし、その支払いを受け得たのであるが、原告の右の申入れがあったからこそそうせずに原告の申し出に応じたのであるから、被告が土屋又はその加入健康保険組合に対し診療報酬支払請求をすることが困難な時期に至ってから、土屋に対する診療行為が交通事故による傷害についてなされたものでなかったと判明したとの理由により前記立替え払いの意思表示を取り消し若しくはその無効を主張して支払い済みの治療費の返還を求めるというのは、禁反言の法理から許されない。

3  権利の濫用

原告は、土屋の最後の診察日である昭和五八年八月三日から二年八か月余を経過した診療報酬請求権の消滅時効完成直前に至り、しかも、土屋が保険金詐欺による実刑判決を受け服役中で、被告において土屋又はその加入健康保険組合に対する権利行使をすることが困難な時期となった昭和六一年四月になって初めて本件契約の意思表示につき錯誤を主張したものであり、このような時期に至ってする錯誤の主張は、権利の濫用として許されない。

4  消滅時効

知念医院の入院治療費の支払は、毎月末日締切翌月初め払いとされているところ、本件訴状送達の日である昭和六一年四月一六日には、昭和五八年三月三一日以前における土屋に対する治療費合計八四万三六〇〇円について消滅時効が完成していたから、民法七〇七条の趣旨により、原告は、被告に対し当該部分の返還請求権を行使することができないものである。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は否認する。

原告は、訴外斉藤から本件交通事故の報告を受け、所定の調査事項につき調査した結果、契約者である訴外斉藤の無理な追い越しによる交通事故と判断される状況が認められ、かつ、被害者が入院している状況にあって、契約者の不可抗力若しくは被害者の重大な過失を主張し得る等の特段の事情が認められなかったことから、被害者の迅速かつ適切な治療を可能にするため、入院先に対して本件交通事故による傷害に関する治療費の支払意思を連絡すべき保険者としての責務を果すべく、被告に対する本件契約の申込みの意思表示をした。

2  抗弁2及び3は争う。

禁反言の法理は、要素の錯誤につき適用はなく、また、全くの仮病による長期入院を許した故意さえ疑わせる被告の重大な誤診に権利濫用の主張は理由がない。

3  抗弁4は争う。

土屋は被告を誤信させて診療行為をさせ、被告に本件治療費相当額の損害を負わせたものであり、被告は土屋に対し不法行為に基づく右同額の損害賠償請求権を有するところ、被告は右の不法行為の加害者を本件訴状送達により知ったというのであるから、消滅時効の主張は理由がない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1の事実については当事者間に争いがなく、〈証拠〉を総合すれば、次の事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。

土屋は、タクシー運転手であって、同業者で故意に交通事故を惹起して入院する等して損害賠償の名目で保険金を詐取していた連中に唆されて、自らもこれを真似る機会を狙っていたものであり、本件事故当日午前七時半過ぎころ、たまたま訴外斉藤が追い越し禁止区域で土屋の運転する自動車を追い越す態勢を取ったことにかこつけ、自車を斉藤のスピードに合わせて並進して進路を譲らず、対向車が接近したため斉藤車が自車の進路に進入しかかったところを、後方から故意に自車を接触させて不慮の事故に見せかけた。右の接触は土屋の自動車の塗料が多少はげた程度の軽微なものであり、土屋は現実には何の傷害も負わなかったが、これにより負傷したとして、直ちに、前記仲間の一人で当時故意に惹起した交通事故で傷害を負ったとして知念医院に入院していた山本幸雄に連絡を取り、うまく交通事故を起こしたから同病院への入院ができるよう医師に依頼してほしいと頼んでその場での行動のとり方の指導を受け、まず最寄の佐々病院で診察を受けた。土屋は、従前仲間に教えられていたとおり、同病院の榊原医師に対し、頸椎捻挫等の定型的な症状があるかのように仮装の自覚症状を主訴として並べたて、レントゲン写真上は何の異常も認められなかったが、同医師から、頸椎捻挫及び胸椎捻挫との診断を受け、知念医院への紹介状を得、右の紹介状とレントゲン写真を持って知念医院へ赴き、被告の診察を受けた。被告は、前記山本から、友達が車を運転中時速五〇キロメートルくらいのスピードで激しくぶつかったので入院させてほしいとの要請を受けてこれを了承していたところ、榊原医師の紹介状を持参して来院した土屋本人から、山本の話と同様に、交通事故で激しく衝突した旨及び首の痛み、頭痛、吐き気、両腕と腰の痛みがある等、頸椎捻挫の定型的な症状等の訴えを受け、右榊原医師の紹介状にも頸椎捻挫、胸椎捻挫との診断結果の記載があったことなどから、レントゲン写真では異常が認められないものの、本人の主訴を否定するだけの明確な資料のない状況で、右の主訴に基づき、頸椎腰椎捻挫と診断し、土屋の入院を認めた。

2 請求原因2のうち、原告と被告との間において、昭和五八年二月一六日ころ、原告が訴外土屋の知念医院における治療費を被告の指定する銀行の預金口座に振り込む方法で支払う旨合意したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉を総合すれば、次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

原告と訴外斉藤との間には、対人事故の場合の保険金額を一億円とする自動車保険契約が締結されており、その自家用自動車保険普通保険約款(PAP)第一章第六条には、対人事故について損害賠償請求権者は保険者に対し直接損害賠償金の支払を請求し得る旨の規定がある。被保険者である斉藤は、本件事故について、同月一四日までに保険者である原告に報告するとともに、右保険契約及び自動車損害賠償責任保険の一括払い制度による損害賠償の事務処理一切を原告に委任し、原告の西東京支店八王子損害サービスセンターの京極高幸及び野瀬修がこれを担当することとなったところ、土屋は、同月一六日、右の原告のサービスセンターに見舞いと損害賠償金の支払いを催促する電話をした。そこで、京極及び野瀬は、事故報告の内容を検討し、斉藤が追い越し禁止区間でした追い越しの際の事故と認められ、かつ、事故による傷害で被害者の土屋が入院していること、その時点で本件事故が不可抗力によるものであるとか保険金詐欺を目的とした土屋の故意行為であるなどの資料もなかったことから、土屋の行為に疑念を挿むことなく、斉藤の損害賠償責任は免れないと判断し、同日、京極が、知念医院に電話をし、斉藤が原告の自動車保険に加入しているので、本件事故による土屋の治療費は原告が知念医院に直接支払う旨伝え、同医院の受付の者がこれを受け、了承した。翌一七日、京極は、知念医院に土屋を見舞い、休業補償についても検討を求める同人に対し、本件事故による治療費は原告から知念医院に直接支払う旨申し出で、土屋もこれを了承し、同人は、後日斉藤に対する免責書も作成した。京極は、右一七日に、治療費の直接払いの趣旨を知念医院の事務担当者に重ねて伝え、再度了承を得、間もなく、被告に対し、原告所定の診断書用紙及び自動車損害賠償責任保険診療報酬明細書用紙を送付した。被告は、整形外科の専門医であって、交通事故による被害者の治療を多数手がけており、保険会社に対する診療報酬請求及び支払の手続きを心得ており、原告からの右の所定の用紙の送付を受けて、同月二四日以降、これにより土屋の診療報酬を原告に請求する手続きをとった。

3 右認定の事実によれば、原告と被告との間の前記合意は、原告と訴外斉藤との間の保険契約における損害賠償の債務引受けに関する約款上の第三者のためにする契約を前提とするものであって、本件交通事故に関する斉藤の土屋に対する損害賠償の債務を原告が引き受け、土屋の知念医院に対する治療費の支払債務を右の引受けに係る損害賠償債務の履行の一部として原告が債務引受けしたものと認めることができ(これを、損害賠償金の支払方法につき土屋から指図を受けた原告が、被告との間において右支払方法の点についてのみ合意したと解するのは相当でない。)、その際、原告は、右の債務引受けは、土屋の治療費のうち本件交通事故と相当因果関係にありかつ斉藤が損害賠償責任を負う治療費部分に限るものである趣旨を表明し、被告自身整形外科専門医として右の趣旨を理解していたと認めることができる。

このことと前記事実の経過からして、本件契約は、本件交通事故が不慮の事故であって土屋がそれにより真実治療を要する傷害を負ったことを当事者双方が当然の前提していたことが明らかであり、その旨本件動機の表示がなされていたと認めることができるから、右の動機は法律行為の要素であるということができ、また、原告は、本件契約締結の際、本件事故が真実は訴外土屋が保険金詐欺の目的で故意に惹起させたものであって土屋が傷害を負った事実はないのに、それがあたかも不慮の交通事故であって土屋がこれにより負傷したため知念医院で診療を受けていると誤信していたもの(請求原因3)と認めることができるところ、請求原因4の事実については当事者間に争いがない。

4 以上によれば、本件契約における原告の意思表示には、表示されて法律行為の要素となった動機の錯誤があったから、本件契約は無効であるということができる。

二  そこで、以下抗弁につき検討する。

1  抗弁1について

〈証拠〉に前認定の事実を総合すれば、原告においては、担当者野瀬及び京極が本件交通事故の報告の内容を検討した結果、訴外斉藤が追い越し禁止区間でした追い越しの際の事故と認められ、その時点で本件事故が不可抗力によるものであるとか保険金詐欺を目的とした土屋の故意行為であることを疑わせる資料もなかったことに加え、被害者として入院した土屋から損害賠償支払いにつき催促を受けていたことが明らかであり、また、原告がその後間もない二月下旬訴外株式会社総合保険リサーチを通じて田無警察署に事故の処理状況等を問い合せ調査した結果とも異なるところがなかったと認めることができるのであって、前記の状況のもとにおいて、原告が、被害者の迅速かつ適切な治療を可能にする責務を果すべく、土屋の入院先である知念医院に対して治療費の支払意思を表示したことにつき、重過失があると認めることはできず、抗弁1は理由がない。

2  抗弁2について

法律行為の要素に錯誤がある場合に意思表示を無効とするのは、禁反言の法理の存在を前提としてもなお錯誤により意思表示をした表意者を保護すべきであるとの立法政策によるものであるから、抗弁2は主張自体失当である。

3  抗弁3について

本件全証拠によっても、原告が、被告の診療報酬請求権の時効消滅の時期を量ったりしてその権利行使を困難にする等の害意をもって本訴提起の時期を選んだと認めるに足る証拠はないから、その余を判断するまでもなく、抗弁3は理由がない。

4  抗弁4について

原告のした被告に対する土屋の治療にかかる診療報酬の支払いは、本件契約上の自己の債務の履行としてしたものであるから、本件につき民法七〇七条の適用はなく、抗弁4は主張自体失当である。

三  右のとおり被告の抗弁はいずれも理由がなく、原告は本件契約の錯誤による無効を主張し得るものであり、前記のとおり、原告が被告から土屋の治療にかかる診療報酬として請求を受け、被告に合計二二四万四六一〇円を支払ったことは当事者間に争いがないから、被告は、原告の損失において法律上の原因なくして右同額の利益を得たものである。

四  よって、不当利得返還請求権に基づき、右の金額及びこれに対する訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和六一年四月一七日から支払い済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める原告の本訴請求は理由があるから認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 久保内卓亞)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例